Sunday, December 17, 2017
   
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以上述べた内容は一般的に念仏する人が念仏を体究するの過程です。ところが、もっと利根な人は真実な心を悟ったと同時に仏性を見ることができます。善知識より教え導かれなくても自分で仏の法身を見ることができます。これは即ち「大勢至菩薩念仏円通章」に述べたように「若衆生心,憶仏念仏,『現前』当来,必定見仏。(もし衆生心に仏を憶し、仏を念ずれば、現前にも仏をみたてまつり、当来にもかならず仏をみたてまつるべし)」。もし来世がこの理一心の境界まで修行できれば、即ち「当来」必ず仏陀が見られるという意味です。その上、「見仏」ということは自性仏(自分自身の仏)を見る。諸仏陀の法身を見る。全ての衆生の法身を見るという意味で、仏陀の化身を感応することではありません。この時、突然何かに気がつく「諸仏陀の法身はこのようだ、全ての衆生の本来面目もこのようだ」と言います。もしこの人が参禅したことがあれば、この時「なんとこれは土城和尚(台湾で有名な大師)が立っているところで、良い三十回の杖を受けることだ」と言うでしょう。

この実相念仏の修行に対して疑問を持ってから仏性を見るまで、全部の体究過程において「方便をも假らず、自から心の開かるるを得べし」ということです。なぜ方便をも假らずのか。これは、実際は仏陀を無相に憶うので、且つ実相が無相であることに極めて相応しているからです。禅を学ぶ必要がなく、自然に禅ができるからです。参話頭を学ぶ必要がてはなく、自然に参話頭することができるからです。頭が潰れそうになるまでかみしめなくても、自然に疑問を持つようになるからです。善知識がいなくても、自から心の開かるるを得べしです。心を開く過程は短く、一日かかる人も居れば、長くて十何年かかる人、或いは来世になる人も居ます。故に、「現前当来、必定見仏」と言います。従って、「悟りが遅かれ早かれて、必ず心が開くのです」と言うでしょう。

心が開いたから仏性を見たので、この後名号を唱えて念仏することも、観想念仏も、無相念仏も、全て実相念仏であります。なぜならば、実相は全ての相から離れていて、即ち全ての相であるからです。実相は空に非ず、有に非ず、非空に非ず、非有に非ずとして。この時、「一つ仏陀の名号は事(具体的に修する作法の面を事相と言う)と理両方を概括する」と言えるでしょう。念仏の事相と真理両方を良く弁えることができるので、縁に従って人の念仏法門の修行を援助することができます。この時の念仏は別の境界になり、「心を開く」前の無相念仏と違います。この時の念仏は心を用いて心を念じるのであり、自分の真実な心を用いて、仏陀の真実な心を念じることであります。能念と所念と一つの心である(念じることができる心は虚妄な心であるが、真実な心から生まれたので、真実な心の体性の一つである。従って、悟った人の念じることができる心は能念と所念と不二の心である)。異なっているものは仏陀の定と智慧が円満であるのに対し、我々が円満ではないことである。仏陀の福徳と智慧が完備しているが、我々は完備ではないということです。将来を展望すると、永遠に三悪道(地獄道、餓鬼道、畜生道)に落ちないのですが、成仏するまでの道が未だ遥かに遠い為、仏陀を憶う時に自分自身が恥ずかしいと思ってしまいます。この境界まで達していない仏子を思うと、悲しく不憫に思い、大悲な心が自然に湧き起こり、順序を追って彼らをこの境界まで達成できるように助けたいと思うでしょう。

この段階になった者が往生する時に上品上生(極楽浄土に往生する者の階位を上・中・下に三分した、その最上位。更に上品上生・上品中生・上品下生に区分する)で極楽浄土に往生したいなら、必ず阿弥陀仏の摂受を受けます。往生する前に、みんなを慰め予告します。往生する時が来たら、金剛の台に座り、極楽世界に往生します。その時阿弥陀仏とお会いし、直ちに無生法忍を悟ります。一瞬の間に十方向の世界で計り知れない仏陀を礼拝し供養することができます。諸仏陀の前で順番に授記を受けてから極楽浄土に戻り、計り知れない百千陀羅尼大総持門を獲得します。

念仏する人はここまで修学できれば、極めて大きな功徳受用と解脱を得ることができます。例えば、みんなの前で侮辱されても、心の中に本当に瞋怒にならなく、相手にしません。しかし、これで満足してはいけません。仏子の念仏することを援助する一方、広義の念仏法門を続けて修学すべきです。主な方向は種智と根本四禅を修学することです。実相に入ったので、煩悩がほとんど除去され、四禅を修学すれば他人に比べると百倍千倍より早くなります。四禅ができれば、続けて観禅、錬禅、薫禅、修禅を修学すべきです。これらは全て定であり、定によって計り知れない百千の三昧が生まれ、仏道に向かって、計り知れない衆生に利益を与えます。くれぐれも実相念仏の境界で満足して、停滞しないてください。

疑問を解く

ある人は「この文章は念仏に関して述べているので、禅について議論すべきではない」と言います。実は、これは念仏の層次を上げるための転換に関する議論しべきです。例えば、名号を唱える念仏する人は心で唱えて心で聞く段階に停滞していることが多く、心で唱えて心で憶う段階に転換することを知りません。心で唱えて心で憶うことができた後、無相憶仏に転換すべきで、全ての相を捨て離れるべきです。ある人は仏を憶う時に、名号が出てこないのを悩むとも言いますが、これは転換がわからないからのです。無相念仏(仏陀を憶う)の念が泉のように湧き出し途切れない時、念仏を体究すべきで、即ち事相の修行から真理の証悟に転換し、これも転換であります。私は常に知見が不足している者、或いは禅の修学を排斥している者がこの煩悩で退却し、無相念仏の境界に停滞し、「見仏」因縁を失ってしまい、実相念仏境界に入れないという者を見ます。このような人は上品上生の果報をみすみす好機を逃してしまい、とても惜しいと思います。これらは全て知見が不足で転換を知らないためです。

仏法は八万四千解脱法門がありますが、一つ一つ法門の修行は最後に必ず第一義(実相)と相応します。例えば観想であろうと、天台宗の止観であろうと、禅宗の参禅であろうと、浄土の念仏…等、いかなる法門でも、第一義が現れるまで修行できる因縁があれば、その最終的な段階の本質は禅に違いありません。しかし、それぞれ法門の修持は最初から最後まで必ず転換があります。それは雑然としている心から統一している心まで、定力が現れます。定力が現れたので探究したくなり、従って真実な心の空性を見ることができ、即ちそれが悟りであります。そして、見えないことが見えて真実な心を見て、はっきり理解し、続けて体究し仏性を見ることができ、実相が現れます。それで智慧が顕現し、他の人にも利益を与えることができます。

このような転換の過程は異なった修行の方法によってそれぞれに異なりますが、原則は同じです。言い換えれば、禅はそれぞれの解脱法門の最後の段階に存在し、禅宗だけではありません。この段階に達する前の長い修行の目的は定力と知見を増強することです。定力と知見が備われば、いつ転換するのかがわかるでしょう。因縁が成熟すれば、禅が現れます。

簡単に言えば、解脱は次のことから得られたものである。「心を摂めて戒と為し、戒があれば定が起こされる、定から智慧をもたらす」。その転換の原理は有相から無相に、巧みな手段によって実相に入るということです。実相に入ると、無相であり無相でもない。従って天台宗は「理事不二(真理と事相は二つのものではありません)」と言います。禅宗は「渓声便ち是れ広長舌、山色清浄身に非ざること無し」と言います。浄土宗は「一つ仏陀の名号は事理(真理と事相両方)を含む」と言います。このような転換の原理と原則はいかなる宗派であろうとも共通しています。例えば、世尊が経典で説いている、この娑婆世界の東方における不眴世界は、文字と言葉がなくても、その世界にいらっしゃる仏陀がやはり仏法を用いて諸菩薩を化導できる。文字と言葉がないけれど、無相念仏を修学する人のように、初めに念仏の念を文字の相及び仏陀の名号を唱える声相に置かないで、徐々に修練して転々と進んでいって、更に話頭の参究に転じ、念仏を体究することを成就して、最後に法界実相を証得する。これは無相念仏を方便にして、菩薩を教化し導いて大乗菩提を悟って明心するのである。ここに『大乗理趣六波羅蜜多経』第二巻の世尊の開示を証拠として例をあげる。

爾時薄伽梵復告具壽阿難陀言:『彼不眴世界無諸苦難,及三惡趣亦不聞名,……國土嚴淨,唯佛法王化諸菩薩,無有文字亦無言說。彼諸菩薩受化之時,來詣佛所恭敬合掌,目不蹔眴瞻仰如來念佛三昧自然成就,故彼世界名為不眴。念佛三昧云何是耶?所謂非色相生,亦非受想行識生,非前後邊際智慧生,亦非現在見聞所生。』佛告阿難:『其念佛三摩地不可思議,於諸法無所行而觀諸法如實相,無說無示、無相無名,此即名為念佛三昧。』」

経文で挙げているように、世尊が説いた不眴世界は、文字もなく、言葉もないが、その世界の諸菩薩は仏陀に親しみ、仏陀の化導を受ける時、恭しく合掌して、目を凝らして如来を仰ぎ見るだけで、念仏三昧が自然に成就してしまう。その時、言葉や文字を離れた自性弥陀(自心真如、如来蔵)を証得できる。これは無相の方便によって直接実相に入るのである。ここに念仏と唱名がないのに、何故経文の中で念仏三昧がすでに成就したと言えるのか。明らかに念仏の体究の真義は、実相の証得と参究の過程である。これが体究念仏なのである。しかも、念仏の本質は真の仏を見て、つまり法界実相を自ら証得すること、これが見仏の真義なのである。なぜならば、世尊の説いた念仏三昧は色や、受や、想や、行や、識の法相から生じるものではなく、諸縁が安立されている十二因縁法から得る智慧から生じるものでもなく、目の前で見たり聞いたりする見聞覚知の法から生じるものでもない。念仏三昧は、意識で思議することができないことである。目の前で、一向に見聞覚知をしなくて、見聞覚知を離れた自性弥陀を一念相応(証悟すること)すると、般若智慧で自性弥陀が五蘊諸法を生じる根源であることを観察できる時、自性弥陀は、もとから生じることがなく、自性弥陀に含まれる蘊処界の法種及びさまざまな功徳法性ももとから生じることがでもなく、因縁に従って五蘊諸法を生じてきて、これが諸法の如実法相なのである。それ故に、自性弥陀は諸法の実相なのである。諸法の如実法相を観察できる智慧が念仏三昧なのである。

真摯の助言

念仏法門を修学する初期、定期的に念仏の修行集会に参加し、善知識の著書を参照し、普段自分が仏陀の名号を唱えることを配合すれば、利益を受けることができます。精進に無相念仏の段階まで目指しているなら、修行の過程で、少数の人々は感応を経験する可能性があります。例えば、光を見る、良い香りを嗅ぐ、仏陀金色の身体を見る等…これはうれしいことですが、執着してはいけません。極めて少数な人(一万分の一人)は座禅している時に仏陀を見ることができ、仏陀が説法してくれたり、修行に関して指導してくれたりすることもありますが、必ず三法印と四依法に基づいてその教えが間違いないものと実証しなければなりません。もしそれが相応できなければ、それらの教えに従わないようにしなければなりません。一部分の人達は無相念仏を熟達した後、安らぎ、清涼、大喜び、同情、慢心を除去、定に入ること…などの現象を発生します。これらは全て定の心の顕現であり、驚くと罣礙が必要てはなく、続けて深く入り込んで修習すべきです。

更に、近年、数人の仏を学して人々とお会いしたことがあります。彼らは参禅により、或いは念仏を体究したことにより、言語、文字、妄想が無い境界に達した時、彼らは勇敢に無相念仏の心を引き受け、そして「この心は本当の私」と思い、善知識にそれを提出しました。善知識はこれを悟りと承認した為に、彼らは渾然にこれが虚妄な心であることがわかりませんでした。もし「言語、文字、妄想から離れた心は真実な心」であるなら、全ての言語、文字、妄想が無い動物の心は言語、文字、妄想から離れています。全ての定を修行し成就している人達も言語、文字、妄想から離れることができ、そして彼らの認識の心は真実な心となります。もしそれが本当に真実な心であるなら、どうして彼らに悟りの解脱功徳と受用が現れないのでしょうか。このような微細な所で、真の善知識しか明確に見分けることができないのです。従って、真の善智識が仏教徒を正しい知見を指導し上手で、正確な道に進めるように導く必要があります。念の無い靈知心を悟りとしてはいけません。定の境界で花を見ること(心の花)を悟りとしてはいけません。さもないと、悟りの空を得ることができなくなり、更に実相の空と有の不二境界に入ることもできなくなるでしょう。

従って、念仏を体究する際に、真の善知識の指導が一番大切です。本当の善知識というのは、実際に実相の境界に入った人であり、自分で仏性を見ることができ退かない人であり、第一義を明確に理解し、巧みに手だてを講じて人を導く、念仏する人に有相から無相に、そして権仮で実相に入ることを指導できる人であります。この善知識は必ず有名で人気な人とは限らないが、仏を学して人々の修行を導くことができ、仏を学して人々の境界を勘検することができます。彼は念仏を体究している人が虚妄な心を真実な心であるという誤解を避けることができ、虚妄な感覚を本覚であるという誤解を避けられます。また、彼は仏を学して人々を順番に実相念仏境界に入れさせることができ、仏を学して人々が神聖な境界に対する執着を取り除くことができます。幸い、このような善知識が台湾では段々多くなってきて、彼らを見つけるのは難しくありません。重要なのは、我々念仏する人達に自信を持たせること、慢心を取り除くこと、菩提心を発すること、菩薩行を行うことができるかどうかということです。でなければ、善知識が我々の前に現れたとしても、面と向かって外すを恐れてしまうでしょう。

以上述べた内容は名号を唱える念仏により事相の修行から仏性を見る真理を証する段階まで、全て五つの層次です。無相念仏が容易に達成できないが、便利な巧みな手段を使い、手順良く決まった段取りに従う、努力に練習すれば、それほど困難ではありません。実相念仏はほとんどの人々の望みを超えていないのですが、それも不可能ではありません。無相念仏三昧を達成できれば、常に精勤に護念し、慢心を取り除き、菩薩の素晴らしい心を発起して、毎日お釈迦様に跪いて真の善知識との因縁とその所在を導いてくれるように祈り、そうすることにより、必ずある日真の善知識と出会え、その善知識の二言三言わずかな言葉により問題を解決できるかもしれません。もし未だ真の善知識と出会えていない場合、未だ因縁が足りないということで、弱気になる必要がありません。細かく体究さえすれば、今現在仏陀を見ることができなくても、少なくとも人身を守ることができるので、来世確実に仏陀を見ることができるでしょう。

本当に菩薩種性である者はしばしば無相念仏三昧が達成した後、二、三年以内に自分で修行し、自分で悟り、自分で実相を見るができます。また、経典及び論の中に多方面にわたってそれが正しいものであると実証することができます。菩薩の大きな心を発起し、慢心と弱い心を取り除かなければ、実相念仏境界を求めても是の処有ること無けんであります。ここで私は誠心誠意を持って全ての仏子と一緒にお互いに励まし合いましょう「全ての仏子が仏陀を憶い、念仏することを願いましょう。皆は現前か将来仏陀を見ることができるでしょう。そして、皆は心を広くして、全ての衆生に恩恵を与えましょう」。

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